◆◇六つの紋章をめぐる物語◇◆

ヴノン記

2.馬屋のヴノン




ヴノンが三十歳の頃、トリスティカスの市中に水蹄すいていという家畜の疫病が広まった。
蹄のある家畜が罹かかる病で、終しまいに蹄が腐り落ちて歩くことができなくなる。
ミストラートの地では珍しくない病だが、有効な治療法はなく、これに罹患りかんした家畜は漏れなく殺処分するしか手立てがなかった。
神殿つきの馬屋でも、たくさんの馬が犠牲になってしまった。

こんなことがあって、神殿の馬丁たちは、ヴノンの不思議な力に注目し始めた。
ヴノンが面倒をみる馬は、一頭もこの病に罹っていないのだ。
振り返ってみれば、彼がこれまで面倒を見てきた馬が、病気になったという覚えがない。
馬丁達はその秘訣を知りたがった。
ヴノンは特別なことをしたわけではなく、ただ心を込めて馬の体をさすってやっていただけだった。
幼い頃から、彼は自分がそうすれば馬の病を撥ねのけられることを知っていた。
だが、他の者が彼の真似をしても、決してそのようなことはできなかった。

ヴノンの不思議な力の話が市中に広まり、興味を持った人々が、ヴノンのいる神殿つきの馬屋に、病気の家畜を連れて訪ねてくるようになった。
ヴノンは来る者を追い払ったりせず、丁寧にさすって漏れなく治してやった。
それで、訪ねてくる人の数は日ごとに増え、馬屋の前に順番待ちの行列ができるようになった。

ある日、評判を聞いた漁師がヴノンを訪ねてきた。
その漁師は家畜を連れていなかった。
彼の家には重い病で長年床に臥せっている息子がいた。
ヴノンは嫌な顔もせず、請われるままにその漁師の家へ行った。
漁師の息子は、闇の精気エレメントに取り憑かれ始めており、手足は痩せこけて冷えきっていた。
ヴノンはいつものように少年の体を心を込めてさすり始めた。
死に近づいていた少年から病を払うのは、容易ではなかった。
忍耐強くさすり続け、ようやく少年の体内で生命力の火が燃え広がるのを認めたときには、夜が明けていた。

ヴノンが治るはずのない病人を治した話はすぐに広まり、ますます評判が高まった。
次第に神殿の神官達も看過かんかできなくなってきた。
トリスティカスから遠く離れた地からも人々が押しかけ、順番待ちを出し抜いてヴノンを馬屋から連れ出すために、神官に賄賂を渡そうとする者も現れ始めていた。
この騒ぎによって神殿内の風紀が乱れることを神官達は恐れた。