内藤修理の子孫


内藤修理が長篠の戦いで討死した後、子の昌月が箕輪城代になったが、天正十年武田家滅亡により流浪し天正十六年病死した。その後は昌定が継ぎ、山梨県北巨摩郡須玉町若神子村に蟄居していたが病死。その子太兵衛昌時が、現在の長野県南佐久郡八千穂村穴原を開拓し、一集落を形成した。現在は日本各地に分家がある。
          系図は以下の通り  内藤昌豊(修理)−昌月−昌定−昌時
穴原は標高850m程で、千曲川の右岸の台地にあって、北南東を山に囲まれた西向きに下る緩やかな斜面にある。内藤一族38戸が一集落をつくっており、裏山には広大な一族の墓地がある。


穴原の地図

穴原の裏山、内藤一族の墓と善龍寺の花梅

穴原の内藤氏保有物


本家にある位牌

中央の位牌
右より、内藤修理亮藤原昌豊
内藤大和守昌月
内藤内匠昌定
内藤太兵衛昌時(穴原開拓者)
昌時の妻
内藤五郎左衛門正住(昌時の五男)

内藤 昌月の位牌

内藤家系図

勝頼が内藤昌月に宛てた書状
小田原衆例式一功無く、去る九日退散候の間、諸卒帰
府せしめ候間、重ねて其の地自り参陣の衆、無用たる
べく候。其の為、早飛脚を遺わし候。尚、東筋の模様聞
き届け、珍儀有らば注進尤もに候。恐々謹言。(下略)

左の書状の解説文

穴原関係内藤一族世帯主名簿
(昭和61年現在)
内藤 甲三
内藤 久太郎
内藤 仙次郎
内藤 帝次郎
内藤 定治
内藤 高治
内藤 昌卯
内藤 仁
内藤 きわ
内藤 良太郎
内藤 悌三
内藤 太三
内藤 昌明
内藤 美津雄
内藤 しん
内藤 富三
内藤 幸一
内藤 徳郎
内藤 美喜次
内藤 俊雄
内藤 重雄
内藤 吉勝
内藤 袈裟吾
内藤 安雄
内藤 良治
内藤 吾雄
内藤 正嘉
内藤 甲子蔵
内藤 吉男
内藤 武二郎
内藤 源太郎
内藤 昭十七
内藤 道雄
内藤 卓爾
内藤 敬二
内藤 修司

穴原以外内藤一族名簿


北海道  内藤 義信
北海道  内藤 義弘
北海道  内藤 倭一
北海道  内藤 達男
北海道  内藤 ノブ子
北海道  内藤 保
北海道  内藤 昇
北海道  内藤 勝之
北海道  内藤 好久
茨城県  内藤 三四
茨城県  内藤 竹末
茨城県  内藤 正四郎
茨城県  内藤 三郎
茨城県  内藤 久
茨城県  内藤 袈裟博
茨城県  内藤 博
群馬県  内藤 昭司
埼玉県  内藤 勉
埼玉県  内藤 荘八
埼玉県  内藤 繁昌
埼玉県  内藤 吉彦
埼玉県  内藤 益夫
埼玉県  内藤 正弘
埼玉県  内藤 良宣
埼玉県  内藤 牧夫
埼玉県  内藤 清
埼玉県  内藤 吉三郎
千葉県  内藤 等
千葉県  内藤 三郎
千葉県  内藤 守
千葉県  内藤 幸男
千葉県  内藤 篤行
東京都  内藤 みね
東京都  内藤 貞夫
東京都  内藤 四郎三
東京都  内藤 九三
東京都  内藤 寛一
東京都  内藤 義人
東京都  内藤 徹郎
東京都  内藤 誠二
東京都  内藤 厚
東京都  内藤 昌温
東京都  内藤 俊郎
東京都  内藤 栄俊
東京都  内藤 幾次
東京都  内藤 道子
東京都  内藤 芳徳
東京都  内藤 友一
東京都  内藤 忠
東京都  内藤 尭
東京都  内藤 元一
東京都  内藤 光彦
東京都  内藤 信也
神奈川県 内藤 勝次
神奈川県 内藤 三男
神奈川県 内藤 良昌
神奈川県 内藤 博
神奈川県 内藤 明
神奈川県 内藤 酬
神奈川県 内藤 龍二
長野県  内藤 文雄
長野県  内藤 貞守
長野県  内藤 孝一
長野県  内藤 代二郎
長野県  内藤 八郎
長野県  内藤 勇四郎
長野県  内藤 辰男
長野県  内藤 静枝
長野県  内藤 久吾
長野県  内藤 末春
長野県  内藤 礼治
長野県  内藤 尚
長野県  内藤 広之助
長野県  内藤 嘉照
長野県  内藤 つね子
長野県  内藤 六雄
長野県  内藤 正美
長野県  内藤 慶紀
長野県  内藤 直人
長野県  内藤 猪三男
長野県  内藤 和四郎
長野県  内藤 正夫
長野県  内藤 昌知
長野県  内藤 止
長野県  内藤 治人
長野県  内藤 幸次
静岡県  内藤 茂
静岡県  内藤 袈裟雄
静岡県  内藤 更正
愛知県  内藤 昌五郎
愛知県  内藤 茂樹
愛知県  内藤 凌
愛知県  内藤 葵
愛知県  内藤 昌樹
愛知県  内藤 康樹
愛知県  内藤 朱利
愛知県  内藤 珂那多
愛知県  内藤 己之吉
愛知県  内藤 勝
愛知県  内藤 保男
大阪府  内藤 武次
大阪府  内藤 邦彦
兵庫県  内藤 袈裟治
大分県  内藤 太丸
香港    内藤 昌人 



八千穂村誌
(第四巻、歴史編、平成15年発行)

内藤塚(現在)

箕輪城の攻略
信濃を支配下に治めた武田信玄は、上州へと兵を進めた。永禄8(1565)年の2月には、諏訪上社と臼田の新海神社へ参拝し、上州の箕輸城を10日以内で攻略できるように祈願している。箕輪城は1500年頃に長野氏によって築かれた城である。同年5月に上州へ進軍した信玄は、倉賀野城を落とした。さらに、永禄9(1566)年9月に箕輪城を攻略し、城主の長野氏を滅ぼした。箕輪城攻略の後、この城の城代となったのは、武田の家臣であり、穴原の内藤家の祖とされる内藤昌豊とその子、昌月であった。

信玄の死亡
西上州を押さえた信玄は、東海や関東へ出兵し、駿河の今川氏や武蔵の北条氏、美濃などを攻めた。さらに、元亀3(1572)年ユ2月には、三方ヶ原の戦いで徳川家康を破った。順風満帆の武田氏であったが、この頃から信玄が重病となった。翌元亀4(1573)年4月に信玄は伊那の駒場で死亡した。信玄の死は秘密にされ、ようやく三周忌の天正4(1576)年に甲州塩山市の恵林寺で葬儀が行われた。なお、佐久市岩村田の龍雲寺には、武田信玄の遺品と称されるものが残されている。また、時代は江戸期に下るが、内藤征治家文書の中には、宝暦13(1763)年、内藤源左衛門と内藤房五郎の両名が信玄の供養料として恵林寺に贈った香典の受け取り状がある。

長篠の戦い
信玄の跡を継いだ勝頼は、天正2(1574)年から美濃や三河を攻めて、徳川家康を脅かした。天正3(1575)年4月、長篠城を武田勢に包囲された家康は、織田信長に援軍を頼んだ。同年5月には岐阜から織田軍が到着、徳川軍とともに設楽原に陣をしき、柵を設けた。戦いは5月21日に行われた。織田と徳川の鉄砲隊の前には、勇猛で有名な武田の騎馬隊も歯が立たず惨敗した。これが長篠の戦いである。この戦いで、山県三郎兵衛や原隼人佐、内藤昌豊をはじめ武田方の主な武将のほとんどが戦死した。佐久でも、望月義勝など多数の戦死者を出した。そして、これが原因となって、以後、武田氏の勢力は衰退した。

武田氏の滅亡
長篠の大敗後、甲州に帰った勝頼は、何とか体勢を立て直そうとした。しかし、武田氏は勝頼の妻の実家である北条氏との対立で、苦しい戦いを迫られた。年が記されていないが、6月12日付で武田勝頼から内藤大和守(昌月)に宛てた手紙が、内藤征治家文書の中にある。(上記穴原の内藤氏保有物写真)これは、おそらく勝頼が、箕輪城にいた内藤昌月に、武田領に攻め入った北条氏が退散したので参陣する必要がないことと、関東方面に何か変事があったら知らせるように命じたものである。北条氏の攻撃を受ける武田方の緊迫した情勢が読み取れる。一方、武田方の内部からも、木曽義昌など、勢いの衰えた主君を見限り、敵方につく者が出た。長野県歌の「信濃国」に出てくる仁科五郎信盛(盛信)や高遠城を守った小山田備申守など、最後まで戦った武将もいたが、武田氏の衰運はもはや明らかであった。このような状況を見た織田信長は、天正10(1582)年3月、甲斐に大軍を送った。そして勝頼は天目山で白殺し、武田氏は滅んだ。

内藤氏の動向
長篠の敗戦後、箕輪城の城代は、内藤昌豊の長男、昌月に任されていた。内藤家の系譜(甲州の豪将内藤昌豊公とその子孫』愛知県鳳来町立長篠城趾史跡保存館67頁)や『善龍寺記』によれば、昌月は、天正10年に主君の武田勝頼を失った後も箕輪城を守っていたが、北条氏の侵略を受け降伏したという。昌月は、天正16(1588)年の1月に病死した。内藤征治家文書によれば、昌豊には長男の昌月のほかに、二男の昌茂、三男の昌直、四男の昌家という4人の子供がいた。二男の昌茂は、妻子と甥の昌定(昌月の子)とともに箕輪城を出て、甲州の若神子に帰り庶民となった。のちに昌茂の子孫は、代々尾張藩に仕えた。三男の昌直(直矩)は彦根藩に仕え、その子の源助は会津藩に召し抱えられた。その子孫は代々源助を名乗り、会津藩の家老を務めた。四男の昌家は相模国に住んだとされている。長男、昌月の子、昌定は若くして亡くなったが、その子、太兵衛昌康(昌時)は若神子を出て、佐久郡にやって来た。最初、小諾の仙石氏の足軽となって、佐久郡内の年貢の督促役を2年務めたと書かれている。その後、上州の白井村に行き、堀川家の婿として3年を過ごした。それから崎田の服部家の世話になったが、その間に仙石氏の役人に許可を得て、穴原の開発を行ったという。昌康は江戸時代の承応2(1653)年に亡くなっている。これらの事柄は、昌康の二男である昌房が寛文3(1663)年に書いた記録や、明和9(1772)年に穴原の近右衛門らが平賀役所に提出した内藤家由緒書(内藤征治家文書)によるものである。これらの記録がどの程度、真実を伝えているかはわからない。しかし、武田家の家臣の子孫たちが、主家の滅亡後、新たに他家の家臣となったり、あるいは農民として土着したりして、安土桃山時代から江戸時代にかけての激動期を生き抜いていく姿がうかがえる。



自成寺

穴原より北へ5kmほど行った海瀬という所にある。穴原の内藤家の菩提寺である。


自成寺本堂

中央一番奥が武田三代の位牌